ヴィーガン(完全菜食主義者)の見てる世界を見たいんじゃあ!
今回の行動
一食、ヴィーガンまたはベジタリアンの食事を選んでみる。
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背景にある社会課題
ベジタリアンは、一般に肉や魚を食べない人を指します。ただし、卵や乳製品を食べるかどうかなど、そのあり方は一つではありません。ベジタリアンの中にもいろんな人がいて、一括りにするのが難しいということです。 ヴィーガンも、ベジタリアンとして括れるかもしれませんが、彼らは食事から動物由来のものを避けるだけでなく、衣服や化粧品なども含め、可能で現実的な範囲で動物の利用を避けようとする思想や生活として定義されることがあります。つまり同じことしてる人たちじゃない! そして、そうした生活を選ぶ理由も一つではありません。 - 動物を苦しめたり、利用したりしたくない - 畜産が環境へ与える影響を減らしたい - 自分の健康を考えて動物性食品を避けたい - 宗教や精神的な信念に従いたい - 社会正義や食料分配の問題を考えたい 同じ行動だとしてもその背景には知っている思想や考えは多様です。つまり同じ思想を持ってるわけじゃない! しかし、ヴィーガンやベジタリアンは「面倒」「意識が高い」「過激」とひと括りにされることがあります。私たちの肉を食べるという行動に対し、実際には何も責められていなくても、彼らの存在によって自分の食生活を否定されたように感じ、反発してしまうこともあります。 この差別感情につながる恐怖感情についても考えます。 また、多くの店や商品は、動物性の食材を食べる人を前提に作られています。ヴィーガンやベジタリアンは、食べられるものを探し、原材料を調べ、ときには自分の考えを説明しなければなりません。 今回は、彼らを外側から評価する前に、まず彼らが何を見て、何を考えているのかを知りにいきます。
この行動の意味
これは、ヴィーガンになるための行動ではありません。よく知らない思想を「ヤバそう」と遠ざける前に、いったん自分で触れてみるための小さな実験です。 あと、誰を基準にして社会ができてるかを理解するための行動です。
負の側面・限界・リスク
どうしても括って考えてしまう
ヴィーガンやベジタリアンについて考えるには、どうしても名前をつけ、ひとつの集団として扱うことになる。でも、その境界は本当にきれいに引けるのだろうか。 「彼ら」と呼び、私たちとは別の世界を生きる人たちとして切り離して考えてしまうと、それは他人事になりかねない。 他人事になれば、彼らの主張だけでなく、彼らが受けている偏見や差別も、自分に関わる問題として考えにくくなる。理解するための括りが、逆に理解を遠ざける可能性がある。これへーって話ですよね。
菜食を選ぶ人を善、選ばない人を悪と評価しない
動物の苦痛を減らすことは大切だ。でも、食をめぐって守られている価値はそれだけではない。 たとえば、こんな価値が対立することがある。 ・動物を利用しないことと、人間の生存や生活を守ること ・ 普遍的な倫理と、その土地の文化や自己決定を守ること ・ 世界規模の環境負荷を減らすことと、地域の環境に適した方法で食料を得ること ・ 動物の権利と、畜産や牧畜で生計を立てる人の生活 ・ 倫理的な一貫性と、健康、費用、入手しやすさ ・ 個人の信念と、家族や地域で同じ食卓を囲むこと たとえばモンゴルでは、厳しい自然環境に適応した牧畜が、人々の生活や文化を支えてきた。都市で暮らす私たちと同じ選択を求めれば、その人たちの生存や文化を否定することにもなりうる。 もちろん、文化なら何をしてもよいという話ではない。ただ、菜食という一つの評価軸だけで人を善悪に分けず、どんな価値とどんな価値が対立しているのかを見なければならない。
ヴィーガンの経験を理解した気にならない
一食だけ菜食を選んでも、ヴィーガンとして生きる経験を理解したことにはならない。 食べられるものを探す大変さの一部は体験できるかもしれない。でも、彼らが何を問題だと感じ、なぜ生活を変えるほど重要だと考えているのかをみることは簡単ではない。背景にある課題感、動物の権利や環境問題について十分に知らなければ、彼らの危機感を同じように抱くことはできないだろう。 分かっていないのに分かった気になると、相手の言葉を聞かなくなる。それ自体が排除につながっていく。今回見られるのは、彼らの世界のほんの一部でしかない。
